「それはまだ
「それはまだ……付き合い始めて日も浅いから、結婚の話は出てないよ。それに、お互い仕事で忙しいし」
付き合い始めて日が浅いことは、嘘ではない。
お互いの仕事が忙しいことも、嘘ではない。
なのに、どこか結婚しない言い訳のように聞こえていないか気になってしまう。
「そうか……」
「何よ。點讀筆香港 そんなに娘に結婚してほしいの?」
「それはもちろん、そうなったら父さんは嬉しいよ。娘の幸せを望むのは、当然のことだろう?」
「幸せね……」
今の私は、久我さんと想いが通じ合い付き合えていることだけでも十分幸せだと感じている。
現状維持が出来れば、それでいい。
だから、結婚についてそこまで真剣に考えたことはなかった。
「でも、父さんは蘭が幸せならそれでいいよ。結婚することが必ずしも幸せだとは限らないからな」
「……うん」
父とこうして二人きりでゆっくり話したのは、何年振りだろう。
最近は仕事が忙しいことを理由に、実家に帰ることを疎かにしていた。
一人で過ごす休日は、エステに行ったり読書をしたり、映画を観に行ったり、自分のためだけに使ってきた。
でも、これからは時間があれば積極的に実家に顔を見せに行くようにしようと思った。
いつまでも親が元気でいるとは限らない。
そんな当たり前のことに、ようやく気付いたのだ。
「じゃあ、お父さんが退院して落ち着いたら、彼と一緒に家に行くから」
「あぁ。楽しみに待ってるよ」
病院を後にした私は、駅までの道を歩きながらこの後の予定をどうするか考えていた。
今は午後四時だ。
これから飲みに行こうと思えば、開いている店はあるだろう。
今日は平日だから久我さんはまだ仕事だし、依織も仕事だから誘えない。スマホの連絡先をスクロールし、これから飲みに誘える友人を探してみたけれど、皆仕事中だろうと思うとなかなか誘いにくい。
こうなったら実家で夕食を食べていこうと思い母に電話を掛けると、今日はこれから友人と食事に行くらしく、家にはいないとのことだった。
「どうしようかな……」
仕方ない。
一人で飲みに行く気分でもないし、今日は大人しく家に帰ろう。
そう決めて歩き出し、バッグの中に入れているガムを取り出そうとしたときだった。
バッグの奥にあるキーケースに目が止まった。
「……」
いや、ダメでしょ。
合鍵をもらって、すぐに使うなんてさすがに重すぎる。
どれだけ浮かれてるんだって呆れられるに決まっている。
いつでも来ていいからと言ってくれた久我さんの言葉を、真に受けてはいけない。
向こうだって、本当に私が来るなんて思ってないのだから。
頭の中でそんなことを自問自答しながらも、足は駅へと向かい、自分の家ではなく久我さんの家を目指していた。
何だかんだと下手な言い訳を繰り返しながら、結局私は久我さんに会いたいのだ。
『今から、家に行ってもいい?もし家で食べるなら、夕食作っておくよ』
行く前に連絡だけは入れておいた方がいいと思い、メッセージを送信した。
すると、五分もかからずに返信がきた。
『ありがとう。なるべく早く帰るから、僕の家にいて』
お互い絵文字はほとんど使わない。
文字だけが並ぶシンプルなメッセージ。
それでも、読むとなぜかわかってしまう。
きっと久我さんは、迷惑だとは思っていない。
むしろ、喜んでくれている……気がする。
『わかった。じゃあ、作って待ってる。仕事頑張って』
私の気持ちも、彼にちゃんと伝わっているだろうか。
合鍵をもらった瞬間からずっと浮かれっぱなしの私に、気付いているだろうか。彼の家の最寄りの駅で降り、駅の近くのスーパーに立ち寄る。
普段会うときは外食が多いため、私が手料理を振る舞う機会は少ない。
正直、料理には自信がない。
確実に久我さんの方が手際も良いし上手だ。
それでも、少しでも喜んでもらえるのなら、苦手な料理にも挑戦しようと思える。
恋が、こんなに人を変えるものだとは思わなかった。
何を作るか悩みながら買い物するのは楽しい。
自分一人のために作るものだったら、こんなに悩むことはない。
和食にするか洋食にするか、それとも中華か……。
スーパーの中を何度も周り、買い物を終えて彼のマンションに着いた頃にはだいぶ時間が経ってしまっていた。
「やばっ!もうこんな時間……早く作らないと」
バッグからキーケースを取り出し、貰ったカードキーを差し込んでオートロックを抜ける。
エレベーターに乗り上に向かう間も、私は少しドキドキしていた。
そして、誰もいない彼の部屋に足を踏み入れた。
「お邪魔しまーす……」
合鍵を使って彼の留守中に部屋に入るという特別感に、少し酔いしれてみたけれど、すぐに我に返り支度を始めた。
「まずはお米を炊いて、それから肉をこねて、お風呂もすぐ入れるようにしておいた方がいいよね……」
独り言を延々と呟きながら、お米を炊き、お風呂掃除を軽く済ませ、今日の夕食のハンバーグ作りに取り掛かる。
「どれぐらいの大きさがいいかな……」
料理って楽しい。
初めてそう思ったかもしれない。
相当手際は悪いけれど、どうにか夕食を作り終えたところで、タイミングよく久我さんが帰宅した。
「ただいま」
「おかえり。ご飯、ちょうど今出来たの。ナイスタイミング!すぐに仕上げるから、食べよ」
すると帰宅したばかりの彼は、キッチンにいる私のそばまで来て頬を緩めた。そして、私の口の端に指先で触れた。
「味見したの?ソース付いてるよ」
「うわ、恥ずかしい……ありがとう」
「何か、こういうのっていいね」
久我さんは、指先に付いたソースを舌でペロリと舐めた。
その仕草からは信じられないくらいの色気が溢れ出ていて、私は彼の行動から目を離せなかった。
「美味しい。食べる前に、着替えてくるよ」
「あ……うん、わかった」
もう、どうしてこの人はこんなに簡単に私を翻弄するのだろう。
いまだに見とれてしまうなんて、どれだけ好きになってしまったのか。
どうにか気持ちを切り替え、私はせっせと作った料理をテーブルに運んだ。
この日の夕食は、一枚のプレートにハンバーグとオムライス、それからシーザーサラダと三種類の焼野菜を乗せた。
スープは余った野菜をたっぷり入れて煮込んだミネストローネだ。
全部、ネットでレシピを見ながら作ったけれど、こうして見ると見映えは悪くない。
ただ、オムライスの卵がうまく半熟にならず、若干固まってしまったことは悔やまれる。
「凄いね。全部美味しそうだ」
「オムライスが思ったよりボリューム凄くなっちゃったの。多かったら残していいから」
「いや、ありがたく頂くよ」
滅多に作らない手料理は、どうやら久我さんの口に合ったようだ。
何度も美味しいと言いながら、全てたいらげてくれた。
私の作った料理を口に運ぶ彼を目の前で見つめながら、思った。
こんな日が毎日続けばいいのに、と。
本気でそう願ったのだ。
「卵って、どうやればトロットロに出来るんだろ。火加減が難しいのかな」
「僕はこれくらい火が通ってる方が好きだけどね」
「そう?それなら良かった」
ボリュームたっぷりのプレートを、結局私も完食してしまった。
今度は何を作ろうか。
そんなことを考えながら、私は食器を手に立ち上がった。